highriseの日記

自転車に乗ったり、外れ馬券を買ったりしている。

バブルガムフェロー死亡

http://jra.jp/news/201004/042703.html
前にも書いたことがあるけど、競馬ファンの好きな馬ってのは競馬を見始めた頃に見い出されて、それに新しく追加されることはあったとしても、それが新しいものに取って代わることはないのだろうと思っている。ぼくの中ではバブルガムフェローがまさにそうであり、高校時代はフジキセキ厨とジェニュイン厨の友人と議論を繰り返していたし、今もなお自他共に認めるバブル基地であるし、これからもバブル基地のままである。
バブルガムフェロー死亡のニュースはtwitterのTL上で知ったんだけど、思いがけずのことで久々に競馬のニュースで目頭が熱くなった。こんなことはメイショウサムソンのダービーで石橋さんがウイニングランをしているとき以来かもしれない。根っからのバブルガムフェロー基地としては、心にぽっかりと穴が開いてしまったような感じというか、一つの区切りのような感じというか、なんとも言えない気分になっている。
ぼくが競馬の話題をチェックするようになったのは94年ぐらいで、中学生だったぼくは寮生活をしていて、新聞が置いてある部屋でスポーツ新聞の競馬面をチェックする、ついでにテレビ中継も見る、という程度にしか競馬を見てなかった。特定の馬に熱を入れてるわけではない程度のファンだったけど、重度の競馬ファンになるきっかけがバブルガムフェロー秋の天皇賞だった。寮の食堂で見ていた競馬中継に映っていたのが、三強を完封したバブルガムフェローと鞍上で立ち上がって手をあげる蛯名騎手だった。痺れた。
バブルガムフェローのイメージといえば、番手から早めに先頭に立ってから粘りに粘って三強を退けた3歳での天皇賞制覇なのかもしれないけど、ぼくが一番印象に残っているのは朝日杯のレースぶりで、あれこそがまさにバブルガムフェローのイメージだといえる。意表をつくような形で抜け出して直線ではセーフティーリードを確保したかに見えたエイシンガイモンを悠々と差し切った姿は、まさに横綱相撲という競馬で、いかにも藤沢・岡部コンビだと思わせる競馬だった。
なぜバブルガムフェローにイレこんでしまったのかは自分でもよくわからない。結局、同世代のダンスインザダークフサイチコンコルドとの対決は実現することはなかったし、天皇賞だって三強対決の脇役扱いで、これといったライバルという馬もいなかったように思う。ラスト二戦のエアグルーヴにしても両レースとも完敗に近いし、有馬記念を走ったわけでもない。レースぶりも堅実で華があったわけでもない。この辺はもう理屈どうこうじゃないのかもしれない。
2002年の夏には、社台SSでスペシャルウィークトウカイテイオーらとともに放牧されているバブルガムフェローを生で見て、一人で狂喜乱舞していた。種牡馬になってからは、重賞勝ち馬を何頭か輩出したし、海外ではRockabubbleがG1を勝ったものの、日本の芝の平地では重賞を勝ったのがアーリーロブストだけで、ちょっと期待外れだったかなという感じだけど、兄Candy Stripesが南米で活躍していること、NZでG1馬が出たことを考えると、海外で種牡馬になったSS産駒のようになっていれば違ったのかもしれない。時代が時代だし、今となっては昔のことであるか。
競馬を始めて何年か経つと、馬柱の父の名前が現役時代を知っている馬になってきて楽しみが増える。そしてさらに何年か経つと、父に限らず母父の名前も現役時代を知っている馬になってくる。最近、母父も知ってる名前が増えてきて馬柱の血統見るだけでも随分と懐しいことが多い。現状では、おそらくバブルガムフェローの父系としての血脈は残っていかないだろうと思う。それでもまた母父とかにバブルの名前があればそれだけで十分かなと、そう思う。
とにかく、ぼくを競馬の世界にどっぷりと引き込んで抜け出せなくしてしまったバブルガムフェローが亡くなってしまった。今はただ、ありがとうと言いたい。