highriseの日記

自転車に乗ったり、外れ馬券を買ったりしている。

曾和直榮調教師とチャンストウライの引退

園田競馬を初めてテレビで見たのは1998年頃だと思う。当時はまだ平日の夕方にサンテレビ園田競馬中継をしているという時代で、今考えると信じられない時代だ。
園田はアラブのメッカで、益田競馬場から移籍してきたニホンカイユーノス小牧太とのコンビで活躍していた。管理していたのが曾和直榮調教師。何も知らない高校生であるし、勝ちまくっている小牧太はすごいのだ、そして所属している曾和直榮厩舎というのもすごい厩舎なのだと最初に名前を覚えたのが、この騎手と調教師だった。ニホンカイユーノスは、ケイエスヨシゼンやエイランボーイらと鎬を削り、最優秀アラブかなんかの賞を取ったはず。
2001年5月2日、昼からの大学の講義をサボって初めて園田競馬場に行った。この日、曾和調教師が管理するロードバクシン兵庫チャンピオンシップを制した。兵庫県競馬サラブレッドが導入されて以来、初めて勝った交流重賞が、ロードバクシンによる兵庫チャンピオンシップであり、サクラバクシンオー産駒の最初の重賞勝ち馬がロードバクシンである。兵庫チャンピオンシップを地元馬が制したのもこの一度だけである。
ロードバクシンは兵庫三冠達成後、兵庫のエースとして2001年のダービーグランプリに挑む。兵庫三冠馬が全国の馬を相手にどれだけやれるのか、が見物だった。が、終わってみれば大差のシンガリ負け。輸送がダメだったとか言われたが、本当に悔やしかったし、全兵庫県競馬ファンが泣いたといっても過言ではなかったはずだ。これ以来、兵庫所属馬は交流重賞に出ても話にならない時代が続いた。
チャンストウライは久しぶりに交流重賞で勝ち負けできる兵庫の馬だった。佐賀記念ロードバクシン以来の交流重賞制覇だったし、その年の園田開催のJBCクラシックで、期待できる地元馬がいるということがどれだけ楽しみなことだったか。負けはしたものの、もしかしたらという期待を持って地元開催のJBCクラシックを見れたことは本当に幸せだった。
曾和調教師、チャンストウライがいなくなり、個人的な兵庫県競馬の一つの区切りだなと感じたニュースであった。

追記

曾和調教師は競走馬の引退後の生活を支援する事業へ、チャンストウライは土佐黒潮牧場へ。