highriseの日記

自転車に乗ったり、外れ馬券を買ったりしている。

ゲイルバニヤン

「もう随分な年になったけど、まだ現役で走れているのは嬉しいね。
 『これ以上は無理かな』と結構思ったもんだけど(笑)」
と明るい顔で語ったのは、11月10日の午後。
ホッカイドウ競馬最大のレース、道営記念を一週間後に控えた頃だ。
そこには、波乱万丈の馬生を歩んできた「今回の主役」も出走する。
新しい活躍の場を見つけた2011年の総決算として――。

ゲイルバニヤン。牡8歳。
現在はホッカイドウ競馬にいるこの馬だが、デビューは華々しい中央の舞台だった。
名門・池江泰郎厩舎で鍛えられ、2006年5月6日の京都5R、3歳未勝利戦でデビュー。鞍上には天才・武豊がいた。
そこで2着と好走後、5戦目で初勝利。しかしその後は勝ち星を挙げられない日々が続く。
善戦すれど勝てない状況にもがき苦しむこと1年3ヶ月。
一般に「充実期」と言われる4歳の一年を勝利無きまま終えようとしていた、その時だった。
「ダート転向」という転機は、年の瀬迫る12月に訪れた。
過去、芝→ダートの転向で素質を開花させ、一流馬の仲間入りを果たした馬も多くいる。
彼もまた、その資格がある馬だと自分で証明して見せた。転向して2戦目で久しぶりの勝利を挙げる。
さらに、勢いそのままに春先にかけて3連勝。勝ち方も文句なしで、誰もが「新星誕生」を確信した。

しかし、いつまでも続くかのように思えた勢いは、そこで止まってしまった。
初の重賞挑戦となったアンタレスSは9着惨敗。次走の東海Sも7着。オープンの壁にぶつかった。
その後、オープンクラスで6戦したものの3着が最高という成績。
この頃のことを、彼はこう述懐している。
「3連勝した頃は、『この世界なら上まで行ける』と自信を持っていたよ。
 だから、オープンに上がって勝てなくなったのはかなりしんどかった。
 『どうして今までみたいに勝てないのか、上手く行かないのか』ってね。
 そんなことを考えてばっかりで、それが余計に負担になっていたんだろうね。」

苦悩を続け、必死にそこから抜け出す方策を考える日々。しかし、それが実ることはなかった。
オープンで結果を出せなかった彼は、2009年の春、中央の舞台を離れることとなる。
新天地となったのは、南関東公営競馬。2度目の転機である。
南関東のことはよく知らなかったけれど、『まだやれる』『トップに立てる』という思いは持っていた。
 正直、レベル的に低く見ていた部分もあったし、JRAでオープンまで上がったプライドもあった。」
と当時の心境を語る。しかし結果は、その次の一言が端的に物語っている。
「それだけに……。」

初戦・6着。2戦目・12着。間に転厩を挟んだ3戦目・2着。4戦目・5着。
これが、南関東公営競馬で彼が残した結果である。勝利はない。2着すらも1度あるのみ。
JRAでオープンまで上がったプライド」は、粉々に砕け散った。今回の転機は、前回とは違った。
「自分の走りがまるで通用しなかった。悔しいとかそんなもんじゃない。ただわけがわからなかったね。」
失意に打ちのめされる日々。これまでとは比べ物にならないほど、大きな痛みだった。
中央競馬の重賞レースで人気になるほど充実した過去。南関東のA2クラスですら勝てない今。
様々な思いが去来し、思い詰め、そうして彼は長い間レースから遠ざかることとなる。

「引退したも同然の状態だったね。『勝てないならもういいや』と。『あきらめよう』と。
 そんなことばっかり考えていて、走る気なんて起きなかった。」

その思いを変えることとなる、彼にとって3度目の転機が訪れたのは2010年の秋。
何が彼を変えたのか。今回のインタビューで、その心境の変化ときっかけを語ってくれている。

「牧場にいた時、ふらっとホッカイドウ競馬のレースを見に行ったことがあってね。
 そこで走っている若い馬たちを見て、何となくワクワクする感覚がこみ上げて来たんだ。
 『ああ、昔は何も考えずがむしゃらに走っていたなあ』とね。
 下級条件で走っている名もない馬があれだけ頑張っている。うらやましかった。
 『勝つとか負けるとかじゃなく、もう一度思うがままに走ってみよう』と思えるようになった。
 それがきっかけで、またやる気が出てくるようになったね。」

情熱の灯が完全に消えていた元エリート馬が、ここから再起の道を辿る。
もう一度競走馬として復帰するためのトレーニングを積むこと半年。
今年4月20日に行われたホッカイドウ競馬のトライアウトで、見事合格を勝ち取る。
あの時復帰のきっかけを与えてくれた舞台で、彼は走ることとなった。
所属厩舎との契約内容は年俸200万円。最高時の年俸である2400万円から比べると雲泥の差がある。
しかし、それは問題ではなかった。走る喜びこそが、今の彼にとって全てだった。

復帰初戦は門別・ひなげし特別。
実に1年5ヶ月ぶりとなるレース。そこで彼は2着に食い込み、通用する力を証明して見せた。
しかしその後、6戦して勝利は無し。最高着順は3着。
中央で不振だった頃、そして南関東で屈辱を味わった頃と状況は似ている。
だが、年齢を重ね、苦悩を重ね、今の彼の考え方は確実に過去のそれとは異なっている。

「別に成績にこだわらなくなったね。競走馬としてはどうかと思うけど(笑)
 ブリーダーズゴールドカップなんて若いもんに6秒7も離されたのに気にならなかったからね(苦笑)
 でも勝ちにこだわる競馬よりよっぽど楽しい走りができているよ。」
と穏やかに語る。彼の言葉の中にも出てきたが、8月には約2年10ヶ月ぶりに重賞にも顔を出した。
過去の実績にとらわれることなく自分の好きなように走り、いいレースをしたと胸を張る。
どん底の時期を乗り越えて辿り着いた場所での競走馬生活は、過去のどの時期よりも、
かつて3連勝で中央のオープンクラスに上り詰めた時よりも "充実" したものとなっていた。

そして、11月17日。2011年ホッカイドウ競馬のラストを飾る大一番・道営記念の出走表に彼の名前があった。
前走で3着と上り調子で迎えたレース。結果は13着。勝ち馬から3秒5離された惨敗だった。
しかし、レースを終えて上がってきた彼は、開口一番「満足!」と言い放った。
そこには、地元一番の大舞台で走れたことへの喜びが詰まっていたように聞こえた。

レース翌日の契約更改。50万円アップとなる250万円での契約に判を押した。
「来年も自分で満足できる走りがしたいね。できれば成績も伴ってるといいんだけど(笑)」
と抱負を語った彼。来年は9歳馬となる。

中央→南関東→ホッカイドウと所属を変えながら、長い間走り続けてきた。
数多の苦しさを味わいながらも、それを無駄にすることなく走る意味を見出した。
来年も、競走馬としての喜びを胸に、黒鹿毛の馬体は北の大地で走り続ける。(終)

http://umaroda.jpn.org/cgi/upother/img/umarodasonota9144.txt
力作。